北陸創価学会

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三代会長について

北陸が生んだ哲人、戸田城聖

 

教育者として

どんな劣等生でも優等生に

 戸田は19歳の時に上京した。その後、4月はじめとはいえ冬のような寒い日、紹介状を手に東京市西町尋常小学校の校長・牧口常三郎を訪ねた。突然の訪問のうえ、ドテラのようなものを着た見ず知らずの青年の話。しかし、家に上げ、真摯に耳を傾ける牧口の態度は、戸田の心をとらえた。自分の経歴や教育に対する意見をあふれるように話した。そして最後に言った。「先生、私をぜひ採用してください。私は、どんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます」。3時間あまりがたっていた。

 話を一通り聞いた牧口は言った。「君の才能は成功すれば素晴らしく成功し、失敗すればまた大いなる敗残者になるだろう」。だが、どこか憎めない戸田に魅力を感じた牧口は、西町小の臨時代用教員に採用した。運命的な出会いになった。

第二代会長 戸田城聖
 

“受験の神様”との異名

 その後、上級校進学を志して教職を去った戸田は、牧口の勧めで補習教育の塾を開設。それが戸田の事業の基礎となっていく「時習学館」だった。そこは、牧口の提唱する教育理論の実践の場となった。そこで学んだ小学生はぐんぐん成長し、志望校へ、どんどん進学していった。その地域一帯では、昼間の学校はダメで、夜の学校(時習学館)でなければダメだ、という評判さえたち、小学校の教師からは、やっかみの目で見られたという。

 一方、戸田は牧口の教育学説を出版するため、資金の準備を進めた。その一つとして、時習学館で使ってきた算数教材のプリントを1冊にまとめて出版。これが受験参考書として100万部を超えるベストセラーになった『推理式指導算術』だった。戸田は、“受験の神様”との異名を得ることになった。

第二代会長 戸田城聖
 

師の『創価教育学体系』を発刊

 牧口は、長年温めてきた教育理論を体系化し、発表したいと戸田に相談した。戸田は、牧口の深い思いを聞き、自分がすべてを支えて出版することを決意。「よし、先生、やりましょう。先生の教育学は、何が目的ですか」。「価値を創造することだ」と牧口。「では先生、創価教育、と決めましょう」。牧口の教育学説は「創価教育学(そうかきょういくがく)」と名付けられた。

 戸田は、牧口が折に触れて広告紙の裏や封筒の裏、書き損じの紙などに書き留めた膨大な資料を整理した。重複する内容はハサミで切って除き、一枚一枚、戸田の8畳の部屋いっぱいにメモを並べると、それは見事に第1巻の原稿になった。1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系 第1巻』が出版。発行所は創価教育学会となっている。この日をもって創価教育学会、後の創価学会の発足の日としている。

第二代会長 戸田城聖
 

創価教育は世界へ

 牧口は常々、戸田に語っていたという。「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ず作ろう。私の代に創立できない時は、戸田君の代で作るのだ。小学校から大学まで、私の構想する創価教育の学校ができるのだ」。軍部権力による獄中生活と牧口の獄死、戦後の事業の挫折と創価学会の再建など、戸田は苦境の連続にあった。しかし、戸田もまた、自身を支える生涯の弟子を持つことになる。牧口の教育にかける夢は戸田の夢となり、そして、後の第3代会長・池田大作(いけだだいさく)に受け継がれた。「大作、創価大学を作ろうな。私の健在のうちにできればいいが、だめかもしれない。そのときは大作、頼むよ」。

 創価教育は、大学をはじめ、幼稚園(札幌、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル)、小・中学校、高校を擁し、米・カリフォルニア州アリソビエホ市にはアメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが開校。また、牧口の『創価教育学体系』は英語、ポルトガル語、ベトナム語、フランス語など14言語で出版され、アメリカ、パナマ、ブラジルなどで実践されている。

第二代会長 戸田城聖
 

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